宗教と私 祈り続けること
中学、高校と、キリスト教系の学校に通っていた。
毎日必ず朝礼拝が行われ、日々「アーメン」と言い続けていた。
当時のことをあまり思い出せないけど、キリスト教の思想に反感を持つこともなく習慣と化していた。
いや、むしろキリスト教にあまり興味を持っておらず、考えることもしなかったのかもしれない。
先日、家が教会だという、クリスチャンの友人に会いに行った。
その教会に行き、日曜礼拝に参加した。
讃美歌を歌ったり、聖書を読んだり、お話を聞いたり。
綺麗な素敵な言葉を聞くと、心が暖かくなる。
教会は、罪を告白して、悩みを打ち明け、心を素直にする場所だと思っている。
私はこの日に友人に不妊治療のことを打ち明けた。
苦しい気持ちでいることを伝えた。
彼女は祈ると言ってくれた。
その言葉を素直に受け止め、ありがたいと思った。
私は神様がいると信じている。
自分の力ではどうにもならないことがあり、祈るしかない時があることも経験している。
ただ、神様が何者かを決めていない。
イエスキリストかもしれないし、近所の神社で祀られている氏神様かもしれないし、先祖様を神聖化して祈っているのかもしれない。
とにかく祈っている。
日本人には信じる宗教がない、という人もいるが
大半の人が、子供が誕生するとお宮参りや七五三など行事を行なっている。
これは氏子入りという儀式の一種で、そこの神社を信じますという行為である。
キリスト教の洗礼に近いように感じる。
知らないうちに、神教に入信している。
そして葬式は、お寺のお坊さんを呼ぶことが多い。
なるほど、仏教も信仰している。
そしてイースターやクリスマスも楽しむし、結婚式を教会であげたりもする。
キリスト教も崇拝してるのか?
3つの宗教が私の人生の至る所で現れる。
生きていく指標として、宗教の教えを元にすることはあるだろうし、それはとても心強いと思う。
どの宗教にも「祈り」がある。
仏教は南無阿弥陀仏などの念仏を唱えながら。
神道は特に決まったお祈りの言葉はないらしいが、お賽銭を入れ、様々な叶えたいことをお祈りする。
キリスト教は主の祈りという長いお祈りの言葉もあるが、基本的に日々、祈りの言葉は変わっている。
各々、あらゆる人や出来事について祈る。
朝起きた時、ご飯の前、寝る前などにも祈る。
声に出して、祈ることで、意識できる。
普段当たり前のように毎日を過ごす中で、「お祈り」をすることで、何を今叶えたいのか、大切にしたいのか、気づくことができる。
私は1日に1回何かにお祈りしようと思う。
どの神様かは知らないけど。
自分が何に感謝して、何を求めて、どうしていきたいのか意識するためにも、祈ろうと思う。
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