カメラが好きだった時 〜安部公房 笑う月短編 アリスのカメラ〜
ブックコミュニティで出会った方に借りた1冊
「笑う月」 安部公房
17編の短編が収められており、その中に、カメラについて語っている作品があった。
私は中学生から高校生にかけてカメラにハマっていた。
と言っても最初は、買ってもらったデジタルカメラで猫の写真を撮る程度だった。
その後デジタル一眼レフを買ってもらったり、中古のフィルムカメラを買ったりした。
カメラの勉強をしようと、図書館にも通い、片っ端から本を借りて読んでいた。
しかし、情熱もいつしか冷め、現在はスマホ最高っと思うようなデジタル女になってしまった。
「アリスのカメラ」
いくつか引用してみる。
“写真を残すつもりで実は結果の存在しない行為に酔っているのだと気付いた時人はカメラを捨て去ろうと決心する。
カメラと一緒にシャッターを押す瞬間のあの無償の期待も捨て去ってしまう。”
この感覚は私がカメラからどんどん離れていった時のことを言語化していると感じた。
いくら自分の気に入った写真でも、撮影していた時の状況や感情を私が覚えているからであって、他人が見たら単なる紙切れという事実に気づき始めた時夢から覚めたような感覚になった。
“結果が存在しないことを承知で、しかも期待を失わずにいられる空想家も少なからずいて、それがカメラ好きになってくれるわけである。”
誰かに見てもらって良いねぇって言われることをそもそも期待しない。
コンクールに応募することもしない。
そういう境地に立ててたら良かったのかも。
“マニヤが求めているのは単なる実用主義的な現実ではなく、むしろ空想なのである。
シャッターを押すことで、世界の部分を手に入れる手形にサインをしたつもりになれる。
その瞬間の自己欺瞞が楽しいのだ。
当然のことだが、どこか意識の片隅には、それが自己欺瞞にすぎないことの自覚もある。”
これはものすごく同感する。
写真は思い出の切り取りでもある。
自分だけにとって意味のある作品となる。
その一枚にたくさんの意味付けをする。
自己陶酔、自己欺瞞。
この本を読んだ後過去の自分のブログを覗きに行った。
ひたすら猫の写真をアップし続けるブログ。
時間だけはたくさんあった当時、2時間3時間と河原や公園に滞在して猫の写真を撮り続けていた。
おそらくこの時の写真を撮ってる感覚と、フクロウ達の動画や写真を撮ってる時の感覚は近いのかもしれない。
何年経っても色褪せない。
私の心を揺るがす写真達。
カメラの存在に感謝しかない。
今はスマホ一台でなんでも撮れてしまう。
データばかりが溜まってしまう。
振り返らない、何度も見返さない写真や動画ほど寂しい物はない。
動画にしても写真にしても、自分が撮ってきたものを大切にしたいと思った。
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